(注1)「伊丹は日本上酒の始めとも云うべし。これまた古来久しきことにあらず、もとは文禄慶長の頃より起て、江府に売始しは、伊丹隣郷鴻池村山中氏の人なり・・・」『日本山海名産図会・寛政11年(1799)浪華の木村兼か堂孔恭』
当時の酒造りは秋の彼岸過ぎの「新酒」から、順次「間酒」「寒前酒」「寒酒」と仕込むのが通常。新酒は古米を使い、しかもまだ残暑の厳しい時節なので、早くできるが酒質は良くない。寒造りの寒酒は雑菌や腐敗菌が入りにくい冬季で、純粋培養された一番良い酒となつた。
(注2)米のデンプンを麹によつて糖分に変え、その糖分に酵母が作用して酒精分を作り出すには、酵母を純粋にしかも大量に培養し、酒母をつくり、これを?に仕込む造り方。
「生もとは濃厚な清酒の醸造に適しており、長い枯らし期間も耐える特性を有している。『灘の酒用語集より』」
(注3) 鴻池家伝・寓話(出典は江戸後期の『摂陽落穂集』)概要「鴻池・山中酒店の下男が、主人への腹いせに灰を酒桶に投げ込んだ。そんなことは露知らず、主人が酒を汲み上げると、昨日まで濁っていた酒がきれいに澄み、香味も良くなっていた。これは、下男が投げ入れた灰によることを突きとめ、それ以後は灰を加えて清澄になった酒を売り出したところこれが大いに当たって、後世、富家の第一になった。これと同類の説話は、江戸後期の『嬉遊笑覧』『北峰雑集』『修斎近鑑』『浪華廼風』『国史眼』『千年鑑』などにもある。
(注4)江戸前期の浮世草子作者・俳人。本名平山藤五。大阪の人。西山宗因の門に入って談林風を学ぶ。『好色一代男』『好色一大女』『日本永代蔵』『西鶴織留』など
(注5)浮世草子。六巻。北条団水編。西鶴の未完成の「本朝町人鑑」と「世の人心」を合わせて、その没後1694年刊行。『広辞苑』
(注6)杉玉(すぎたま)とも酒()林(さかばやし)ともいう。杉の葉を束ねて直径約40pの球状にまとめたもので、酒造家でその年の新酒のできたことを知らせるために、軒に吊るされたもので、後に酒屋の看板ともなった。)
(注7)人目には触れない所にあるという裕福な村落。多く理想郷、仙境の意に使う。ここは摂津のやや奥まったと所にあり、近世初期から酒造業で裕福な町人が多かった伊丹をさす。『対訳西鶴全集・西鶴織留・明治書院』
(注8)『古事記』の出雲神話「大蛇(おろち)退治」に強い酒(八塩折之酒)は、熟成したもろみを搾った汁に、何度も原料米を分けて投入して造るとあり、この方式をいう。同じ方式が『詩経』などには「酎」法とある。
(注9)昔は酒造りは女性の仕事とされ、「刀(と)自(じ)」(婦人、女性)が転じて現在の「杜氏(とうじ)」(季節酒造工の長)となったともいわれている。
(注10)「濁酒(だくしゅ)」「どびろく」「もろみ酒」ともいい、粕を分離しないで、そのままの酒。現在は、構造改革特別区域法に設けられた「酒税法の特例」により、限定した場所でみの造れるようになりました。濁酒の定義は「自ら生産した米(又は麦などの特定物品)、米こうじ及び水を原料として醗酵させたもので、こさないもの」となつています。
(注11)鎌倉時代に起こり室町時代に発達した金融機関。土蔵を構えて金品をあずかり、また質物を納めた。富裕な酒屋が併せて営業したものが多いので、酒屋土倉と併称。どそうとも云う。『広辞苑』
(注12)一反(360歩)の米の収穫高は、12〜13世紀には、近畿の上田で1石2斗〜1石3斗ほどになり、これは8〜9世紀に比べれば、3割から6割の増収である。『日本の歴史 上』(井上清、岩波新書)
(注13)室町時代頃では、糀は玄米を用い、掛米には白米を用いていた。永禄時代(1560年頃)、二段仕込から三段仕込酒造りの技法がかわり、これを諸白と称した。江戸初期には、糀に玄米、掛米に白米を用いたものを片白と称し、その両方に白米を用いたものを諸白と称していた。『灘の酒 用語集』
(注14)戦国大名の、市と座の独占権を否定し、自由営業を認める政策は、楽市・楽座といわれ、天文18年(1549)、近江の佐々木氏がその領国内でおこなったのが最初とされる。『日本の歴史 上』(井上清、岩波新書)
(注15)天文元年(1532)、ポルトガルの首都リスボンで生まれる。16歳でイエズス会の入会。永禄6年(1563)来日。五畿内および九州で布教の第一線で活躍した後、天正11年(1583)、日本副管区長から「日本史」の編述を命ぜられる。秀吉の伴天連追放令の後、マカオに退去したが再び日本に戻り、慶長2年(1597)、長崎で没する。長い布教活動を通し、信長との会見は18回におよび、秀吉をはじめ多くの戦国武将との面識を得た。『完訳 フロイス日本史 中公文庫』(筆者紹介より)
(注16)ある年、伊丹の惣宿老のもとへ届いた書状に「伊丹は酒造肝要の地である。よそより酒の値段が相劣っては、衰微の基である。造酒の儀は、その年の時候にふさわしい品質のものをつくるよう。みだりに粗悪の酒を造り、従来の位、格を取り失わなきようされたい。酒家ともども、つねづね深く心得申すべし」とあつた。『宮水物語
灘五郷の歴史・読売新聞阪神支局編』
(注17)『摂津在郷町の展開−伊丹を中心として見たる−・中部よし子』より
(注18)酒造株とは、各酒造家の酒造米高を株高とし、この株高とともに酒造人の居所と名前を表示して各自に交付した鑑札である。この株札の所有者に限り酒造が認められ、しかも株高以上の酒造は禁止されていた。幕府の酒造統制はこの酒造株高によって実施された。『伊丹酒造業と小西家 史料に見る近世伊丹酒造業・石川道子』より
(注19)幕府は豊作と米価低落を背景に酒造奨励策をとり、「元禄十丑年之定数迄者新酒寒造勝手次第たるべし」と布告して、積極的に酒造奨励へと政策を転換するのである。『日本酒税法史 上 夏目文雄』 「幕初以来の在方酒造禁止政策も弱まり、営業特権としての酒造株の譲渡売買が自由となり、酒造業それ自体に競争契機が導入されてくるのである。『近世灘酒経済史・柚木学』
(注20)天保11年(1840)山邑太左衛門が発見。酒造に適した良質の酒造用水で西宮市内の特定の地下から汲み上げられている井戸水。
(注21)もろみの仕込水のことを汲水という。灘酒は伊丹酒に比して、使用水量が多く、十水(とみず)即ち蒸米10石に対し水10石となり、いゆる「延びのきく」酒となった。
(注22)大正末期に酒造り容器として琺瑯引き鉄製の醸造用タンクが開発される。
(注23)
(1) 『浪速の風』安政年間、大阪町奉行久須美祐隻「豪家鴻池善右衛門先祖、工夫して初めて清酒を製し出せり、…」
(2) 『摂陽群談』元禄14年(1701)岡田渓志 伊丹酒は「伊丹村の市店に造り、神崎の駅に送り、諸国の(3) 津に出す、香味甚美にして、深く酒を好人味之、当所の酒と知る事、他に勝る故也」
(4) 『摂津名所図会』「名産伊丹酒、酒匠の家60余戸あり、みな美酒数千石を造りて諸国に運送す。特には、禁裏調貢の銘酒を老松と称して山本氏にて造る。あるいは富士白雪名酒は筒井(小西)にて造る。…」
(5) 『和漢三才図会』正徳4年(1714)寺島良安編纂「当世醸する酒は、新酒、間酒、寒前酒・寒酒等なり、就中新酒は伊丹を名物として…」
(6) 『万金産業袋』1732年「惣じて江戸にては、一切地造りの酒はなし、時として今繁華の江戸、いく八百八十やらん、方量無辺の其所に、日夜朝暮につかふ酒、多くはみな右にいへる伊丹富田、あるいは池田の下り酒なり」
(7) 『海陸道順日記』「日本中ヘ酒ヲ造リ出ス池田・いたみ(伊丹)トテ、結構ナル酒ノ出ル土地ナルヨシ」
『毛吹草』寛永15年(1638)松江重頼、『日本永代蔵』貞享4年(1687)、『本朝昔風俗』井原西鶴、『今宮の心中』宝永7年(1710)近松門左衛門、『風俗文選』元禄末期芭蕉の門人森川許六、などにも挙げられたり題材にもなっている。
(8) 伊丹酒の中の「剣菱」が、元文5年(1740)に将軍の御前酒に選ばれ、「丹嬢」は頼山陽(1780〜1832)が称賛の辞を残す。また伊丹酒は幕府の官用酒として「御免酒」を名乗ることのできた大手24軒には帯刀が許され、帯刀御免の酒屋は「御酒屋(おんさかや)」と奉られ、並の酒屋と区別された。
(9) 『摂陽続落穂集』「伊丹・池田の造り酒は諸白といふ。元来水のわざにや、造りたる時は、酒の気甚だからく、…」