伊丹酒造組合

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「お酒の研究と資料」

濁酒から清酒へ  〜伊丹酒興隆の歴史と共に〜

古くから「清酒発祥の地」(注1)として名高い伊丹の酒は、文禄・慶長(1592〜1614)の頃から江戸への駄送り(注2)をもっておこり、元禄・享保期(1688〜1736)に広くその名を高め、元禄10年には36軒の酒造家を数え、文化・文政期(1804〜1830)に至って隆盛を極め、幕末・明治期を経て、後に興った灘の酒と共に今日に至るまで名声を維持しています。
近世初期、すでに50万〜60万の人口を擁する消費都市に成長した江戸の需要に応ずるため「江戸積酒造業」として発展した伊丹酒は、「寒造り」(注3)「生もと造り」(注4)「木灰清澄法」(注5)「柱焼酎」(注6)の酒造技法を考案・改良し、江戸の人たちの好みにあった「辛口の酒」として人気を博し、その様子は元禄時代の文豪井原西鶴(注7)が著した『西鶴織留(さいかくおりどめ)』(注8)「津の国のかくれ里」に、「池田・伊丹の売酒、水より改め、米の吟味、こうじを惜しまず、さわりある女は蔵にも入れず、男も替草履はきて、出し入れすれば、軒をならべて今の繁昌。舛屋・丸屋・油屋・山本屋(中略)。此外次第に栄えて、上々吉諸白(もろはく)、松尾大明神のまもり給えば、千本(ちもと)の椙(すぎ)葉(ば)(注9)枝をならさぬ時、津の国の隠里(注10)かくれなし。」と描写されています。
米を原料とした酒造りの歴史は、稲作の伝播と共に始まったと言われています。酒造りの基本原理は、「蒸米にコウジカビを生やしたこうじと蒸米と水をつぼ)、かめ、おけなどの容器に投入し、かくはんし自然醗酵させて酒精分を含むもろみを造り、そのままかまたは布などでこしたり、あるいはその上澄みの液体にするもので、最も古い文けんは、「大宝律令」の施行細則を集大成した古代法典『延喜式(えんぎしき)』(967年施行)の「造酒司(みきのつかさ)」に詳述されています。もっとも、ここに見られる酒造りは、原料の米をこうじを使って糖化させ、空気中に浮遊する野生酵母菌を利用してアルコール発酵に至るところまでは、現在の清酒造りとほぼ同じです。しかし、濃度の高い酒を得る方法は「しおり方式」(注11)或いは「酎方式」といわれる「古法」で、その後の本格的な清酒造りに比べると作業能率も悪く、できた酒の酒精分も低く、劣化しやすく、味も酸味の強いものか甘味の濃い濁り酒だったようです。
そして、時代の変遷とともに、朝廷や寺院の内部で酒造の専門・技術集団で行われていた主に祭しのための酒造り技法は、文化の地方への拡散に伴って次第に致酔飲料を目的として全国各地へと普及し、酒の仕込み容器も壺からかめへと移り、町家の主婦(注12)が自家用の酒を醸造するまでに進みましたが、酒造り技法に大きな進歩がなく「濁り酒」が一般的で、「澄み酒」といわれるものも、やはり現在の「清酒」とは味も外見もまったく違ったものでした。
やがて鎌倉幕府 (1192〜1333)が全国的な支配権を確立すると、各地の都市間の交通も頻繁となり、また人々の往来が盛んになるにつれ宿場としての町々が発展し、営業用を目的とする酒造りが各地の町々に台頭し始めました。それでも一般的に売られ又飲まれる酒は、主として「もろみ」のままの、酸っぱいどろどろしたいわゆる濁酒(どぶろく) (注13)が殆どで、これを目の粗い麻布などで漉(こ)した薄濁りの高級な酒(澄み酒)は、上流階級でしか飲まれなかったのです。
次いで室町時代(1338〜)に入り、足利三代将軍義満が明との貿易を始め、明の永楽銭が大量に輸入され、銭貨の流通が一層盛んとなり、貨幣経済と商工業が益々発達するに至り、酒造を生業とした土倉(どくら)酒屋(注14)などが各地に出現いたしました。また、室町幕府は鎌倉幕府と違って、酒造業の財源(課税は1393年から恒常化)としての重要性に目をつけ、その発展に力を注ぎました。この頃になると全国的にも、農業生産力が上昇し手工業と農業が分離、商工業都市も形成されるようになり、中でも農業技術が一段と進歩し、米の収穫高は以前と比べて3割から6割(注15)近くの増収を見るようになっています。また後に、清酒造り・酒搾り用具の一つとして不可欠となる綿布は、14世紀末頃から朝鮮より輸入され始め、15世紀中頃には衣料としての重要性を高め、15世紀末には綿花の栽培、綿糸布の生産も始まり使用されだしました。やがて1500年から1600年を通じて、綿作は当初は畿内・山陽道筋が栽培の中心であったが、次第に各地に広まっていき、綿布の用途も衣服だけてなく、産業用の各種用途に使われるようになりました。更に14世末頃に製材用具の「大鋸(おが)」と「台かんな(だいかんな)」が大陸より伝わり、木桶や樽が作られるようになり、室町中期頃から酒造用具としてのつぼ・かめは桶と樽に代わるようになってきます。このような背景の中で、各地に独自の名産がつくられ、地域の分業が進み、絹織物や和紙、陶器などと同様に酒造の技法にも改良が加えられ、河内の金剛山、筑前の博多、摂津西宮、大和奈良の酒などが名酒として知られるようになりました。特に京都の酒造業の発展は著しく、応永32年(1425)当時の洛中洛外の酒屋の数は342軒を数えたといいます。この頃京都の酒屋で最も評価の高かったのは、五条坊門西洞院の「柳酒」で、柳製の樽(結樽(ゆいたる)を使用し、酒の銘柄の最初とも言われています。しかし、常に政治文化の中心であつた京都は、山城大地震(1449)や応仁・文明の乱(1467)など何度も戦乱、大火、地震に見舞われ、酒造業も次第に衰退していきます。
一方、10〜11世紀に興った本地(ほんじ)垂じゃく説に基づく神仏混こう時代より遥か以前(8世紀中期)に、すでに寺院での酒造りは始まっていました。それが寺社荘園領の発展と貨幣経済の浸透につれて、寺院運営の大きな財源として、僧侶の飲酒禁制とは裏腹に僧坊での酒造りは大きな比重を占めるようになってきました。僧坊は酒造りにきわめて有利な条件である、寺領荘園からの貢納余剰米、仕込み、貯蔵のための広大な坊舎、豊富で清い山水、知識の厚い僧徒に労働力たる大勢の学衆と極めて恵まれた環境にありました。そのため、酒造の技法の改良改善によって、ここに従来の「古法」による濁酒造りと一線を画する「新法」ともいえる「添(そえ)方式」(注16)による「段仕込・諸白つくり(注17)」が萌芽することとなりました。
これ以降、米を原料とした我が国の酒造りは、「古法」を踏しゅうした民間・自家醸造の「濁酒造り」と酒造り専門集団によって酒造技法が改善・改良が続けられ、やがては市場流通性も品質も高い「清酒」と称せられる酒造りとに分岐していきます。この僧坊での酒造り技法を伝える史料に、『御酒(ごしゅ)之日記』(1489)と『多聞院(たもんいん)日記』(1478〜1618の記録)があり、「三段仕込み、諸白づくり、火入れ」の新技法が書き留められています。しかしながら、新興の戦国大名が領国政策として行った楽市・楽座(1549) (注18)を起因とする自由営業による経済発展と織田信長が岐阜の城下町造成に際して打ち出した「兵農分離」政策によって、やがて大名領国内だけにとどまらず各地の大名の勢力圏をつなぐ広域商業が成長していきました。これによって、今まで主として禁裏、公家、寺社を中心として発展した中世酒造業は、大名領国制を基礎とした戦国大名の楽市・楽座に集まってきた新興商工業者による都市酒造業が発展するにつれて次第に没落していきました。
とは言え、この頃からもう少し時代が下がっても「新法」による「諸白酒」を飲用できるのは武将や富豪だけで、一般の庶民が飲む酒は従来の「古法」による濁り酒であったことは、フロイスの『日本史』(注17)の次のような観察記録によっても知ることができます。「永禄3(1560)年、近江坂本から日本人従者ダミアンと共に京都に入ったポルトガル人神父ガスパール・ヴィレラは、布教を続けながら毎日のミサ聖祭に必要な酒を求めるが、その酒は翌日までとっておくと酢になってしまう」と記している。
慶長5(1600)年、美濃の関が原の決戦で勝利した徳川家康は慶長8(1603)年、江戸に幕府を開き、翌月から江戸市街の大拡張を始め、3年後の慶長11年から翌年に掛けて江戸城を築きました。この大土木工事のために全国の大名が動員され、寛永12(1635)年の「参勤交代」制が行われると共に、江戸市中の人口は増加の一途を辿ることとなります。
また、幕藩体制の確立によって、商品貨幣経済と交通もまた大きく発展し、農業技術も飛躍的に進み、耕地面積の増加と共に米の反当収量も伸び、更には商品として売るための作物や野菜の生産という商業的農業も成長しつつありました。一方で、各地諸藩の城下町に武士や僧侶・神職とその使用人が集住し、それらの必要を満たすための職人や商人も集まり、相互の需要を生みだし、大きな消費都市を形成するようになりました。その最大のものが城下町江戸であり、武家とその奉公人に加え商人・職人・各種の労務者などの町方の人口は80万人とも100万人とも言われます。このような特に産業のない江戸の膨大な消費に応じるため、全国から大阪に様々な物資が集められ、ここから江戸をはじめ各地へ送られる体制が築かれました。
さて、米を原料とした日本の酒造りは、最初に述べましたように約2000年にわたる長い歴史の中で、日本の風土と気候(注19)を巧みに利用して、発酵作用が酵母菌によるものであることなど、まったく知ることなく様々な人々の知恵と工夫の積み重ねによって、室町時代末頃から江戸時代初期に掛けて「古法」よる「濁酒造り」から脱却して、今日と殆どかわりのない清酒を創出するまでになっていました。そして、江戸積酒造業としても先駆的な役割を果たした、奈良の僧坊で造られた「南都諸白」に代わり、続いて京・大阪・江戸の三都を風びしたといわれる「伊丹酒」が、この後急速に発展し、やがては「清酒発祥の地・伊丹」とまで謳われるようになります。
江戸市中において、伊丹の酒が絶大な人気を博した第一は、今までにない卓越した品質の酒であったことがあげられます。それは、見た目にも鮮やかに澄んだ酒で、これは木灰清澄法(鴻池伝説)と木綿布ろ過の組み合わせによる優れた「ろ過の技術」を実現したこと。これは木綿が1600年頃を境に急速に普及したことによって、以前のもっぱら麻と絹による濾過と格段に能率や性能面(注20)で優れていたためであり、更には、南都諸白と比較してもこうじ割合(注21)が少なく、しかも早くから寒造りを始めており、長期保存・長距離輸送(注22)に耐えるシャンとした辛口の酒であったこと。
第二に、江戸積み酒造業として、早くから江戸に進出し、江戸市場の開拓に成功したこと。  おりしも、江戸幕府開府、参勤交代制と諸大名の妻子在府制開始によって人口が急増し、次いで、幕府が在方酒造業(注23)の禁止(1642年)を行い、都市型酒造業の伊丹が優位になったこと。
第三に、製造方法と輸送の合理化をいち早く達成したことがあげられます。商品性の高い酒を造るにはいわゆる「並行複醗酵」(糖化作用と発酵作用を並行的に進行させ、両作用を完結させる)でなければならず、そのための生もとつくりを完成させ、冬季仕込へ重点を移したこと。また、作業工程のシステム化を図り量産化に成功。即ち分業と専門化(杜氏と蔵人)および、量産化に必要な大型木桶と、大量輸送に必要な樽が時期よく実用化された背景があったことが大きく寄与しました。加えて1619年・慶長17年に「ひ垣廻船」が就航し、大阪の油、綿、醤油、酢などの混載で江戸へ直行したが、1661年・寛文元年より小西新右衛門が発案したといわれる酒専用の「樽廻船」の就航を始めるなどの大量輸送体制を構築したこと。
第四に、多くの文人墨客による宣伝に加えブランド化と価格政策(注24)が採られたことも大きく寄与しています。「伊丹諸白」「丹醸(たんじょう)」「近衛家御用達」「将軍の御膳酒」などの今様キャッチフレーズが用いられたり、井原西鶴『織留』『日本永代蔵』『西鶴俗つれづれ』や近松門左衛門(注25)、頼山陽(注26)などの筆によった数知れない宣伝が行われたことなどがあげられます。「伊丹酒」を話題にした書籍(『日本山海名産図会』「伊丹酒造の図」、『本朝食鑑』元禄8年(1659)平野必大著(注27)、『守貞漫稿』江戸末期(1853)(注28)など)や「見立て番付」「東西味比べ」などが数多く出版・流布されるなどしています。また伊丹酒のニセもの騒動(注29)が起こるなど大変人気が高かったことが裏づけらます。
第五に、立地の好条件と好環境に恵まれたことがあげられます。まず、早くから伊丹は五畿内に属し、古代文化の恩恵を受け続けられたこと。次いで、荒木村重の居城下の町場と市場としての存在を保ち、1617年・元和3年徳川氏の天領となり、駅所の公認を得、幕府天領の貢租米の蔵所(京二条、大阪、高槻ととも)に定められるなど、原料米の大量入手が可能となる位置を占めていたことなどがあります(注30)。また、寛文元年(1661)伊丹郷町は五摂家の筆頭である近衛家領となり、そのひ護のもとに多くの特典を得たことが特筆できます。江戸時代当時、物資の輸送は川と海に大きく依存していましたが、伊丹はすぐ傍を駄六(だろく)川が流れ、これが猪名川と合流し安治川へとつながり江戸へと運ばれる便利さがありました。伊丹より早く江戸積み酒造業として栄えていた奈良・南都の酒が江戸からも遠く、陸路の輸送も船運に不便であつたため、伊丹や後の灘に圧倒されたことを考え合わせ、立地のよさが大きく寄与したといえましょう。
江戸幕府による酒造統制は、寛永11(1634)年、前年の江戸大地震と各地の凶作による米価とう貴の抑制のため、「酒造半高造りと新規酒屋の一切禁止」に始まり、寛永19(1642)年大飢饉と米価高とうを契機に「在方(農村)での酒造禁止と農民に対する酒の販売禁止」を布告するなどして酒造統制の強化をすすめていきました。その後、明暦3 (1657) 年、初めて「酒造株」(注22)(図4)を設定し、更に厳重な統制を行うことを始め、以後、寛文6(1666)年、延宝7(1679)年に続き、元禄10(1697)年の「株改め」において酒運上を課し「酒造株体制」を確立しました。寛文10(1670)年、新酒 (秋造り酒)を禁止し、商品性の高い「寒造り」政策を明確にしたことにより、伊丹の江戸積み酒造業が確固たる位置を占める要因の一つともなりました。その後酒造制限と酒造統制緩和が何度か繰り返されましたが、宝暦4(1754)年に酒造「勝手造り」の方針が打ち出され、天明6(1786)年に至る31年間は酒造奨励となり、自由競争の時代を迎えましたことから、酒造の新興勢力としての「灘目(上灘・下灘)と今津」の酒造家が台頭し、江戸市場での伊丹から灘への転換が起こることとなりました。
灘酒が伊丹酒を追い越していった要因は、上記の時代背景と共に、一つには宮水の発見によって汲み水割合の高い、いわゆる伸びの利く(注34)酒を可能にしたこと。二つ目には六甲山を水源とする急流の河川を利用した水車精米により、従来の足踏み精米に比して大量の精米と高精白精米を可能にし、酒の品質が高まると共にコスト削減が得られたこと。三つ目には、寒造りへ集中できる技術の改善を行い、より優れた酒質を可能にしたこと。四つ目には新興勢力として、伊丹などの既存の勢力を凌駕する気概と酒造技術の改良に努めるなどして、千石蔵などに代表される量産化と手工業的作業の定型化に成功したこと。五つ目として、灘の蔵元は海岸線に近くに所在し、容易に海運の利用が可能となり輸送コストの点でも極めて有利な立地にあったこと。などがあげられます。そして今なお、「灘五郷」の酒は多くの有名銘柄を擁し、生産量においても酒質においてもトップの地位を保っています。
京都・伏見の酒造業は、古くから銘酒の産地として歴史に登場しながら、江戸時代には京都市中は伊丹酒に独占されるなどして衰退しましたが、明治期に入り酒造の世界にも先進の欧米文化や科学技術が導入されると、いち早く科学的な酒造技術に取り組み、率先して技術者の養成を行い、酒造容器の刷新(注35)や横型精米機の導入などを積極的に進め、鉄道敷設による輸送の有利性を生かし全国銘柄をいくつも輩出し、灘と並ぶ銘酒産地となっています。
以上、江戸初期から中期にかけて、並ぶものなしとまでの名声を保ち、幾多の環境の激変を乗り越えてきた「伊丹酒」は現在、伊丹酒造組合に「白雪、大手柄、老松、花衣、千鳥正宗、武庫泉」の6銘柄を数えます。また、江戸期を通じての酒造技法や酒造組織に関する文献「白雪・小西家文書」約1万5000点が伝存し、学術的な価値も高く、その中の元禄期の酒造りが白雪によって復元され、「元禄の酒」として高い評価を得ています。この「伊丹酒」を中心に据えて、米を原料とした民族の酒「清酒」の足跡を追ってみましたが、これからも自然にやさしく美味しい醸造酒「清酒」並びに歴史と伝統のある、清酒発祥の地「伊丹の酒」のより一層のご愛飲とご支援をお願いいたします次第です。


(注1)「伊丹は日本上酒の始めとも云うべし。これまた古来久しきことにあらず、もとは文禄慶長の頃より起て、江府に売始しは、伊丹隣郷鴻池村山中氏の人なり・・・」『日本山海名産図会・寛政11年(1799)浪華の木村兼か堂孔恭』
当時の酒造りは秋の彼岸過ぎの「新酒」から、順次「間酒」「寒前酒」「寒酒」と仕込むのが通常。新酒は古米を使い、しかもまだ残暑の厳しい時節なので、早くできるが酒質は良くない。寒造りの寒酒は雑菌や腐敗菌が入りにくい冬季で、純粋培養された一番良い酒となつた。


(注2)米のデンプンを麹によつて糖分に変え、その糖分に酵母が作用して酒精分を作り出すには、酵母を純粋にしかも大量に培養し、酒母をつくり、これを?に仕込む造り方。
「生もとは濃厚な清酒の醸造に適しており、長い枯らし期間も耐える特性を有している。『灘の酒用語集より』」
(注3) 鴻池家伝・寓話(出典は江戸後期の『摂陽落穂集』)概要「鴻池・山中酒店の下男が、主人への腹いせに灰を酒桶に投げ込んだ。そんなことは露知らず、主人が酒を汲み上げると、昨日まで濁っていた酒がきれいに澄み、香味も良くなっていた。これは、下男が投げ入れた灰によることを突きとめ、それ以後は灰を加えて清澄になった酒を売り出したところこれが大いに当たって、後世、富家の第一になった。これと同類の説話は、江戸後期の『嬉遊笑覧』『北峰雑集』『修斎近鑑』『浪華廼風』『国史眼』『千年鑑』などにもある。
(注4)江戸前期の浮世草子作者・俳人。本名平山藤五。大阪の人。西山宗因の門に入って談林風を学ぶ。『好色一代男』『好色一大女』『日本永代蔵』『西鶴織留』など
(注5)浮世草子。六巻。北条団水編。西鶴の未完成の「本朝町人鑑」と「世の人心」を合わせて、その没後1694年刊行。『広辞苑』
(注6)杉玉(すぎたま)とも酒()林(さかばやし)ともいう。杉の葉を束ねて直径約40pの球状にまとめたもので、酒造家でその年の新酒のできたことを知らせるために、軒に吊るされたもので、後に酒屋の看板ともなった。)
(注7)人目には触れない所にあるという裕福な村落。多く理想郷、仙境の意に使う。ここは摂津のやや奥まったと所にあり、近世初期から酒造業で裕福な町人が多かった伊丹をさす。『対訳西鶴全集・西鶴織留・明治書院』
(注8)『古事記』の出雲神話「大蛇(おろち)退治」に強い酒(八塩折之酒)は、熟成したもろみを搾った汁に、何度も原料米を分けて投入して造るとあり、この方式をいう。同じ方式が『詩経』などには「酎」法とある。
(注9)昔は酒造りは女性の仕事とされ、「刀(と)自(じ)」(婦人、女性)が転じて現在の「杜氏(とうじ)」(季節酒造工の長)となったともいわれている。
(注10)「濁酒(だくしゅ)」「どびろく」「もろみ酒」ともいい、粕を分離しないで、そのままの酒。現在は、構造改革特別区域法に設けられた「酒税法の特例」により、限定した場所でみの造れるようになりました。濁酒の定義は「自ら生産した米(又は麦などの特定物品)、米こうじ及び水を原料として醗酵させたもので、こさないもの」となつています。
(注11)鎌倉時代に起こり室町時代に発達した金融機関。土蔵を構えて金品をあずかり、また質物を納めた。富裕な酒屋が併せて営業したものが多いので、酒屋土倉と併称。どそうとも云う。『広辞苑』
(注12)一反(360歩)の米の収穫高は、12〜13世紀には、近畿の上田で1石2斗〜1石3斗ほどになり、これは8〜9世紀に比べれば、3割から6割の増収である。『日本の歴史 上』(井上清、岩波新書)
(注13)室町時代頃では、糀は玄米を用い、掛米には白米を用いていた。永禄時代(1560年頃)、二段仕込から三段仕込酒造りの技法がかわり、これを諸白と称した。江戸初期には、糀に玄米、掛米に白米を用いたものを片白と称し、その両方に白米を用いたものを諸白と称していた。『灘の酒 用語集』
(注14)戦国大名の、市と座の独占権を否定し、自由営業を認める政策は、楽市・楽座といわれ、天文18年(1549)、近江の佐々木氏がその領国内でおこなったのが最初とされる。『日本の歴史 上』(井上清、岩波新書)
(注15)天文元年(1532)、ポルトガルの首都リスボンで生まれる。16歳でイエズス会の入会。永禄6年(1563)来日。五畿内および九州で布教の第一線で活躍した後、天正11年(1583)、日本副管区長から「日本史」の編述を命ぜられる。秀吉の伴天連追放令の後、マカオに退去したが再び日本に戻り、慶長2年(1597)、長崎で没する。長い布教活動を通し、信長との会見は18回におよび、秀吉をはじめ多くの戦国武将との面識を得た。『完訳 フロイス日本史 中公文庫』(筆者紹介より)
(注16)ある年、伊丹の惣宿老のもとへ届いた書状に「伊丹は酒造肝要の地である。よそより酒の値段が相劣っては、衰微の基である。造酒の儀は、その年の時候にふさわしい品質のものをつくるよう。みだりに粗悪の酒を造り、従来の位、格を取り失わなきようされたい。酒家ともども、つねづね深く心得申すべし」とあつた。『宮水物語 灘五郷の歴史・読売新聞阪神支局編』
(注17)『摂津在郷町の展開−伊丹を中心として見たる−・中部よし子』より
(注18)酒造株とは、各酒造家の酒造米高を株高とし、この株高とともに酒造人の居所と名前を表示して各自に交付した鑑札である。この株札の所有者に限り酒造が認められ、しかも株高以上の酒造は禁止されていた。幕府の酒造統制はこの酒造株高によって実施された。『伊丹酒造業と小西家 史料に見る近世伊丹酒造業・石川道子』より
(注19)幕府は豊作と米価低落を背景に酒造奨励策をとり、「元禄十丑年之定数迄者新酒寒造勝手次第たるべし」と布告して、積極的に酒造奨励へと政策を転換するのである。『日本酒税法史 上 夏目文雄』 「幕初以来の在方酒造禁止政策も弱まり、営業特権としての酒造株の譲渡売買が自由となり、酒造業それ自体に競争契機が導入されてくるのである。『近世灘酒経済史・柚木学』
(注20)天保11年(1840)山邑太左衛門が発見。酒造に適した良質の酒造用水で西宮市内の特定の地下から汲み上げられている井戸水。
(注21)もろみの仕込水のことを汲水という。灘酒は伊丹酒に比して、使用水量が多く、十水(とみず)即ち蒸米10石に対し水10石となり、いゆる「延びのきく」酒となった。
(注22)大正末期に酒造り容器として琺瑯引き鉄製の醸造用タンクが開発される。
(注23)
(1) 『浪速の風』安政年間、大阪町奉行久須美祐隻「豪家鴻池善右衛門先祖、工夫して初めて清酒を製し出せり、…」
(2) 『摂陽群談』元禄14年(1701)岡田渓志 伊丹酒は「伊丹村の市店に造り、神崎の駅に送り、諸国の(3) 津に出す、香味甚美にして、深く酒を好人味之、当所の酒と知る事、他に勝る故也」
(4) 『摂津名所図会』「名産伊丹酒、酒匠の家60余戸あり、みな美酒数千石を造りて諸国に運送す。特には、禁裏調貢の銘酒を老松と称して山本氏にて造る。あるいは富士白雪名酒は筒井(小西)にて造る。…」
(5) 『和漢三才図会』正徳4年(1714)寺島良安編纂「当世醸する酒は、新酒、間酒、寒前酒・寒酒等なり、就中新酒は伊丹を名物として…」
(6) 『万金産業袋』1732年「惣じて江戸にては、一切地造りの酒はなし、時として今繁華の江戸、いく八百八十やらん、方量無辺の其所に、日夜朝暮につかふ酒、多くはみな右にいへる伊丹富田、あるいは池田の下り酒なり」
(7) 『海陸道順日記』「日本中ヘ酒ヲ造リ出ス池田・いたみ(伊丹)トテ、結構ナル酒ノ出ル土地ナルヨシ」
『毛吹草』寛永15年(1638)松江重頼、『日本永代蔵』貞享4年(1687)、『本朝昔風俗』井原西鶴、『今宮の心中』宝永7年(1710)近松門左衛門、『風俗文選』元禄末期芭蕉の門人森川許六、などにも挙げられたり題材にもなっている。
(8) 伊丹酒の中の「剣菱」が、元文5年(1740)に将軍の御前酒に選ばれ、「丹嬢」は頼山陽(1780〜1832)が称賛の辞を残す。また伊丹酒は幕府の官用酒として「御免酒」を名乗ることのできた大手24軒には帯刀が許され、帯刀御免の酒屋は「御酒屋(おんさかや)」と奉られ、並の酒屋と区別された。
(9) 『摂陽続落穂集』「伊丹・池田の造り酒は諸白といふ。元来水のわざにや、造りたる時は、酒の気甚だからく、…」


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