伊丹酒造組合

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「お酒の研究と資料」

江戸川柳の世界 下り酒 その1

はじめに

酒が最初に造られたのがいつのことわからないが、たぶん人類の誕生以来人間とともにあったのではないかと思われる。
果実が発酵して酒のようなものになるのは、人間の手を借りなくても、ある条件のなかで偶然にできる筈のものである。匂いもいいし、少し嘗め、少し飲み、しているうちによい気分になり、これは、これはと積極的な酒造りがはじまったのではないかと思うのだが、確証はない。
ここで扱う酒はもちろん日本酒。すでに奈良時代に麹を用いての酒造が行われており、日本酒の歴史は相当古いのである。
奈良時代・平安時代の酒の多くは朝廷の官営酒造工房で造られ、祭事用または特権階級のものであった。 鎌倉時代になると、飲酒はかなり一般化してきたらしく、建長4年(1252)にはかんばつのため禁酒令が出ている。そしてこのとき鎌倉一帯の酒屋の酒壷3万7274個が破壊されたことが記録されている(「吾妻鏡」)。
室町時代にはさらに大衆化し、酒が売買され、酒屋の屋号が登場し銘柄も付けられた。 応永32、33年(1425、26)の洛中洛外の酒屋名簿が北野神社の保管されているが、それには342軒の造り酒屋が登録されている。また、河内天野山金剛寺・大和菩提山寺・近江百済寺等々、僧坊で造られる酒がもてはやされた。
この頃の酒造技術を伝える文献として「御酒之日記」や「多門院日記」がある。
現代の日本酒のルーツである諸白酒が造られたのがこの時期であり、最初に名乗りを上げたのが奈良酒であった。諸白酒とはモト米・掛米とも白米をもって仕込んだ酒で、その味わいは絶品と称賛された。
室町末期から近世初期にかけての銘酒であった南都諸白は、江戸時代になるとまず伊丹・池田に受け継がれ、以後、摂泉十二郷と称された上方酒造地帯で大発展し、江戸のノンベエたちのもとに届けられたのである。

1 下り酒と流通システム

酒の句はやはり江戸時代である。というのも、その昔上方の美酒はそうやみやみと関東の男たちの口には入らないものであった。
近世になりはじめて江戸の男たちは上方の旨酒を手に入れることができたのである。
近世、江戸で売買される酒の多くは上方から樽廻船で送られる、いわゆる「下り酒」である。ほかには三河・美濃・尾張から送られる酒、江戸近郊で造られる地回り酒などがあるが、なんといっても酒は上方である。
徳川幕府がおかれ、政治の中心となった江戸だが、いわば新興都市、これまで僻地だったところである。将軍の居城する大城下町として人口が集中するが、それを支える生産力は低い。そこで生産力と物資の集荷力の高い上方が、江戸の日常生活物資の供給源となったのである。航路も開発され大量の物資が運ばれた。上方の酒はこのような近世の流通機構のなかで発展成長した酒である。
江戸時代、酒の名産地として名高い摂泉十二郷のなかでも、初期まず名声を博したのが伊丹・池田の諸白酒である。前述したように南都諸白の醸造法を完成させた澄み酒である。
そこで、どのような酒が江戸に送られたかをみたいのだが、川柳子は酒を造ったりしない。呑むだけである。というわけで、その辺りの事情にはうとく、句も少ない。
・池田伊丹で造り出す寿の補薬 (当新三10)
・是も縁酒のかんする池田炭 (一四四15)
池田は酒だけでなく、断片の形状が菊の花びらのように美しく、茶席などで用いられる良質の炭も名高い。
江戸のノンベエは自分の呑む分量さえ確保できればよいのだが、江戸の人口と酒の量をみると、元禄6年(1693)の人口がおよそ60〜70万と推定されている。これに対して元禄10年江戸に積み送られた下り酒は64万樽。もっともこの年は近世前期の送り高のピークであり、以下11年58万樽、12年42万樽、13年22万樽と減少していっている。酒造は年々歳々造り高の高下が激しい。というのも、米の豊凶によって造る量が厳しく制限されたからである。
近世後半の江戸の人口およそ100万。それに対して文化文政期 (1804〜29) には100万樽前後の酒が毎年江戸に送られた。文政4年(1821)の122万樽余という記録があり、これが江戸時代を通じての最高とされている。1樽は4斗、神社などに奉納されている、あの大きさの樽である。相当な酒量が江戸で消費されていたといえよう。

2 酒の江戸入津

上方から江戸に送られる酒は、酒を専門に送る樽廻船に積み込まれ、西宮あるいは大坂の湊から積み出され、遠州灘で富士を仰ぎながら江戸品川沖に到着した。品川で艀に積み替えられ、新川に並んだ酒問屋の蔵に運ばれる。船での輸送期間は、当時のこととて10日あるいは20日と定まらないが、杉材の4斗樽に詰められた酒は海上波にもまれ、芳醇で格別な味わいであったという。
・伊丹から積んで竿さす花筏(一〇九41)
・船中でもめばやわらぐ伊丹酒(一三二8)
・男山舟で見合いのさくや姫(四二2)
「花筏」は伊丹大鹿屋の酒。「男山」も伊丹の酒である。
さくや姫は富士山の御神体。廻船に乗り込んだ男山は船上でさくや姫とお見合いをするわけである。
・新酒が大ぶん来たとはぜつりいい(天五宝3)
品川あたりではぜ釣りをしている者が新酒を積んだ廻船の入津を目にした句である。
新酒を江戸に送り出すとき、とくに「新酒番船」といわれる行事があった。
新酒番船は、その酒造年度にできた最初の酒を積み込み、大坂・西宮の湊を同時に出発して江戸早着を競った海上レースである。樽廻船問屋の船が出揃い、上方と江戸の年中行事として毎年華々しく行われた。
出帆に際しては鉦や太鼓で見送られ、普通風待ちだの日和見だのとて10日、20日、あるいはそれ以上かかる輸送日数も、このレースに関しては乗組員も大変な気の入れようで、昼夜兼行。早いものでは三日とか四日で江戸に到着している。
最初に江戸へ着いた一番船は江戸の酒問屋たちの盛大な出迎えを受け、船頭は赤い襦袢でゴールに躍り込み、祝い酒と金一封にあずかった。
到着の順番は陸上早飛脚によって上方へ知らされ、また刷り物になって江戸市中に触れられた。まことに威勢のいい賑々しい風景が毎年繰り返されたのである。 ところで、先程からしきりに出てくる「下り酒」だが、上方から江戸に下った酒の意である。今日、地方から東京に行くことを「上る」というが、当時は京都が「上り」の終着点である。したがって上方から江戸へは「下る」のである。酒に限らず、上方から江戸に送られた品物は「下り物」といわれ高級品として珍重された。
さて、酒問屋のならぶ江戸新川の風景。
・新川は上戸の建てた蔵ばかり(拾五8)
なるほど新川の蔵は上戸ならでは建たない蔵である。
・新川の菰っかぶりは蔵住まい(四四8)
こもっかぶりは、今風にいうと現金収入のないホームレスの別称である。ところが新川のこもっかぶり(酒樽)は酒蔵に納まっている。酒を詰めた四斗樽は、それぞれの酒銘を鮮やかに刷り込んだこもと、磨きをかけた縄で美々しく化粧され、蔵で呑み助を待っているのである。

3 銘柄と柳句

ここまで来るともはや酒は江戸っ子のものである。酒の句は多いが、川柳における代表選手はやはり池田・伊丹の酒である。なかでも酒造家および銘柄の多い伊丹酒の句は多い。
・猩々は池田伊丹の一旦那(七八30)
猩々とは人間によく似た、絵で見るとチンパンジーのようなのだが、人間の言葉を理解し、酒を非常に好むといわれる中国の空想上の怪獣である。酒好きの猩々なら池田・伊丹の一番のお得意である。「猩々」という酒もあり、酒造元は伊丹の丹波屋である。
・新川へ来るのでお寺名が高し(安五松3)
池田の酒造家に満願寺屋があり、この家の酒も高級酒としてもてはやされた。
・さてこれは伊丹入っ樽御進物(一一九27)
・徳利のお土産何より伊丹入り (一六三9)
狂句じみてあまり感心しないがこのような句もある。
俄雨池田伊丹に足がはえ(五三12)
にわか雨に遭った人が酒樽のこもをまとった様子だが、このような利用法もあったらしい。川柳に登場する酒は銘柄酒である。安い地酒も呑んでいた筈だが、川柳子は見えっ張りである。安酒を呑んでいても、高級な下り酒を呑んでいるような顔をしたいのである。しょぼくれて安酒を呑んでいては川柳にならない。しょぼくれた酒呑みの句も多いが、それは田舎者。宵越しの金を持たないのが自慢の江戸っ子の呑み方ではないのである。
そこで、こんな酒を呑んでいるといわんばかりに酒銘が出てくる。が、酒銘によって句に取り入れ安いものがあり、あまり上品なものよりやはりインパクトの強い酒銘が多く詠まれている。
・元服の祝儀は酒も男山(五四1)
おめでたい、男の子らしい酒である。
・ぴんとしてにがみばしった男山 (一〇二14)
・気の強さ江戸でへこまぬ男山(九〇23)
天下の大江戸に出ても大したものである。
・奥女中気晴らしに呑む男山 (八三65)
・戸棚へ隠す留守事の男山 (一〇八34)
このあたりになると何だか意味深長。
「男山」、この名前からこれ以上は紹介しかねる句が多そうなので、次に「七つ梅」の句。
・帯解きの祝儀の酒も七つ梅(六一26)
帯解きは子供がはじめて帯を用いる祝儀で、女の子は七歳の11月の吉日に着物の付け紐をとり帯を付ける、七五三の儀式である。
・酔醒の二種七つ梅袖の梅(一〇六33)
「七つ梅」は酒だが「袖の梅」は酔い醒ましの薬である。酒に酔ったあとは袖の梅で醒ますとよいというのであろうか。
男山・七つ梅、ともに伊丹酒。木綿屋という酒家の銘酒である。
次はご存じ「剣菱」。将軍の御膳酒にもなった天下の銘酒。これも元は伊丹の酒である。はじめは猪名寺屋という酒家で造られていたが、猪名寺屋が没落して津国屋に譲られた。川柳で詠まれているのは津国屋時代の剣菱である。現在灘で造られているが、これは明治の中期以降のことになる。
この酒銘は商人の多い上方より武ばった江戸で好まれそうである。
・花はさくら木酒は剣菱(ケイ十六乙37)
・武家に剣菱寺院には満願寺(別上10)
満願寺は前出池田の酒。
正宗もまた剣菱と同じ趣向で詠まれている。
・正宗を呑む腹わたも切れるよう(こと玉上56)
もちろん名刀正宗にかけている。
次の句は初鰹の刺し身に剣菱という究極のメニュー。
・からしするそばへ剣菱持て来る (安六鶴1)
・おっかけて一升ふやす初鰹(八24)
江戸の男たちがいかに初鰹に熱狂したかは以前紹介した通りである。
・すき腹へ剣菱えぐるように利き (八〇17)
さもあろう、というようなきりりとした酒銘である。
・剣菱を墓へかけたき呑仲間 (一一五五1)
よほど好きである。
一味違った剣菱の愛好者もいる。
・剣菱をひっかけようと乞食いい (九二23)
高い酒である。いっぱい呑もうというのではない。剣菱のマークがはいった「こも」をひっかけようといっているのである。
・剣菱をひっかけて寝る橋の上(新九14)
剣菱は将軍からおコモさんまで、樽の中身も外側も愛好された酒であったとみえる。

おわりに

下り酒の流通と銘柄酒のいくつかについて見てきた。江戸の酒の大かたは上方から送られる下り酒で賄われていたがそればかりではなく、江戸近郊で造られる地酒ももちろんあった。
次はそのような酒と、川柳界の人気者である酒屋の小僧等について紹介したい。

石川 道子


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