商品のご案内
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超特選白雪純米酒
赤富士1.8L瓶詰
化粧箱入 |
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上撰白雪 純米酒
1.8L瓶詰 |
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すっきり辛口
1.8L茶瓶詰 |
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伊丹諸白 純米吟醸1.8L瓶詰 化粧箱入 |
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上撰白雪
生貯蔵酒
純金箔入
500ml瓶詰 |
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江戸元禄の酒
復刻版
7200ml瓶詰 |
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白雪本格焼酎 「富士」720ml瓶詰 |
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貴醸酒雪詩慕雲
500ml |
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原酒樽廻船
720ml |
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酒質特徴
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うま口のやや端麗な飲み飽きのしない、やわらかな口当たりの品質は多くのファンの支持を得、全国新酒鑑評会での金賞受賞の常連でもある。
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社歴
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文亀永正の頃(1501〜1520年)丹後国丹波郡吉原庄(現在の京都府中郡峰山町)奥吉原城に拠り細川藤孝と戦った守護一色氏の陣代小西岩見守を始祖とし、その猶子小西宗雄が民間に下り天文19年(1550年)伊丹に出て薬種商を営むかたわら濁酒造りを創めた。その後文禄元年(1592年)清酒業を本業とし規模も大きく営むようになり、慶長17年頃(1612年)始考新右衛門宗吾が江戸への駄送り(馬の背に積んで酒をおくること)を開始、寛永12年頃(1635年)2代目新右衛門宗宅が江戸へ酒樽を運ぶ途中雪を頂いた富士の気高さに感動し 富士の「白雪」と名づける。
寛文元年(1661年)伊丹町及び近隣11カ村を併せた伊丹郷町が五摂家筆頭近衛家領となるに及び一層酒造りに有利となり元禄時代には『伊丹諸白』『丹醸』と称され江戸積酒の銘産地として高い地位を占めるようになった。3代目新右衛門證園、4代目新右衛門霜巴と酒造業を拡大し、元禄7年(1694年)江戸茅場町で生産者の出店として初めての酒問屋を開業(現在の東京支店の所在地)、元禄10年(1697年)伊丹郷町に惣宿老制度が設けられ、酒屋中にその役目を仰せつかり4代目新右衛門霜巴もその一人として町政を司り帯刀を許され以後小西家は代代その職に就く。
その頃の伊丹の繁栄振りは、元禄8年(1695年)平野必大著『ほんちょうしょくかがみ本朝食鑑』、井原西鶴の『西鶴織留』や『日本山海名産図会』に詳しい。江戸後期に入り灘酒造業が台頭し同時に幕府の度重なる酒造制限令や勝手造りの自由競争などが繰返されて伊丹・池田の江戸積酒造業は激しい競争に巻き込まれ、やがて伊丹の有力酒造家が没落して行く中で小西家が経営を拡大の道を歩んでいった要因として、柚木学氏(元関西学院大学教授)は次ぎのように分析している。
小西家は近世初頭より一貫して伊丹を本家として江戸積酒造業を営み、清酒製造業を主要としながら輸送部門として大阪安治川で樽廻船問屋を経営する一方販売部門として江戸新川に下り酒問屋である江戸店(小西与左衛門)と江戸西店(小西与作)の二店を経営するなど、酒造業を中核として製造から輸送・販売に至るまでの同族経営団を形成していた。この点は灘酒造家に見られない特異な存在である。又小西家は明和2年(1765年)上昇機運の灘に対抗する手段として西宮郷の酒造家資本に参加、4蔵を支配造りとし「白菊」の印で出荷するなど目配りを忘れなかった。加えて伊丹町政に参画し領主近衛家と密接な関係を持ち同時に姫路藩や肥後藩などへの大名貸による金融業も重要な地位を占め、時代は下って明治維新の混乱期に多くの酒屋が経営困難に陥る中、小西家は近世を通じて蓄積した財力をもつて維新政府の財政資金である会計もとだて基立金の調達に応じ、会計裁判所掛・商法司酒造取締役・通商為替会社頭取などの公職にも就くなど時代の変革に先見性をもって対応した。
さらに西洋医学を修めた中野宗碩を伊丹に招き医院を作り医療行政に尽力し又、伊丹小学校創設に私財を投じるなど社会に対し積極的な貢献も怠らなかった。明治2、30年代小西家は蓄積した酒造資本を近代産業に投資する事により新時代を乗り切ろうと意図し、明治18年(1885年)11代目新右衛門業茂は全国3番目のランプ口金工場小西興業場を設立、ついで翌19年には皮革工場を設立、21年山陽電鉄(現JR山陽本線)総代就任、24年代表設立発起人として参画した川辺馬車鉄道が尼崎伊丹間に開通、32年阪鶴鉄道(現JR福知山線)社長就任と一時は酒造業に消極的な姿勢が見られましたが、明治40年代に入り一連の興業場の経営不振を契機に、再び酒造業中心の経営方針に転換し明治42年には伊丹の造石高の三分の一を占め、大正期には更に飛躍的発展を示し、大正4年西宮郷に酒蔵を建設しまた鳴尾辰馬半右衛門蔵を買収、本辰酒造株式会社を設立して12代目新右衛門業精が社長に就任し、昭和8年伊丹酒造部を独立させて小西酒造株式会社を設立、今日に至る酒造業の基礎を固めた。
昭和14年「山は富士 酒は白雪」のキャッチフレーズで広告を開始、17年中国の北京に白雪酒造合資会社を、満州牡丹江に牡丹江白雪酒造株式会社を設立して戦時酒造体制を整えるも、終戦直前の空襲により伊丹宝生蔵、精米所、西宮支店、本辰酒造が全焼し終戦を迎える。昭和22年13代目新右衛門業雅が家督相続し、戦後の清酒製造及び価格統制の続く中積極的な資本金の増資を行い昭和28年12月会社設立20周年記念事業として近代的清酒清造工場『寿蔵』が完成し仕込みを開始、翌29年には新鋭の瓶詰めプラントと大貯蔵庫が完成。33年にはアメリカ・サンフランシスコへ輸出再開。小西輝也社長の積極的な方針の元34年清酒業界初めてテレビ番組「若様侍捕物帖」を提供、37年酒税法大改正により高級酒ブームが起こり販売は拡大の一途を辿ることになる。昭和38年2月14代目新右衛門業輝襲名。同月会社設立30周年記念事業として業界初の四季醸造工場富士山2号完成。その後色々な積極的な経営施策により「白雪」ブランドは不動のものとなる。
平成3年5月小西新太郎社長就任、消費者サイドに立った「座・コミュニケーション」を発表し新しい時代に沿った営業政策展開を図る。平成7年1月阪神淡路大震災が起こり灘地方を中心に清酒産業は大きな打撃を受けたが、各社もそれを乗り越え「白雪」は規制緩和の一環として酒税法が改正されたのを機に平成7年6月「地ビール」事業に進出、複合施設「白雪ブルワリービレッジ長寿蔵」をオープン、翌8年4月オーストラリアに清酒工場を完成させるなど着々と新時代に向けた施策を展開している。
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