昭和18年の企業整備令に基づいて5軒の酒造家(村岡、岡田、鹿島、石橋、田中)が企業合同に参画し、昭和20年6月伊丹酒類興業(有)を設立、昭和43年11月に現在の大手柄酒造株式会社と改称し現在に至る。現社長村岡茂之祐は村岡家の5代目当主に当たり、初代は文久2年(1862年)村岡茂介で創業より酒銘「大手柄」を用いた。2代目村岡儀介、3代目村岡文之介、4代目村岡貞一と酒造業を継承し、今日に至る。
企業合同に参画した5軒の酒造家は何れも古い歴史を有し、中でも享保2年(1717年)創業の岡田家は鹿島屋利兵衛を祖とし、酒米問屋から発し文政年中(1818〜1829)より今津郷にて3蔵を有し、すべて江戸積み銘酒として「一陽・八重・清竹・東雲・飛竜」の印で出荷、明治に入り岡田正造が伊丹で「富貴長」、今津で「福注連」の商標を用いていた。岡田利兵衛は岡田正造を継ぐ。文久年間(1861〜1863年)鹿島為七が大阪天満で酒問屋を開業し、明治に入り2代目鹿島為次郎が大阪市北区伊勢町7番地で伊丹、小西新右衛門醸造の「白雪」の大阪地区の一手販売を引き受け、一方明治41年に至って伊丹大手町にて清酒の醸造を創める。次いで大正年間醸造場を堺町、桜崎の両蔵に移して昭和20年の企業合同に迄醸造を続けた。酒銘は「早春」「誉鹿」を用いて販売した。その間従来の鹿島本店は昭和15年に鹿島合名会社に組織を変更する。
明治の初期石橋茂兵衛の創業に始まり、2代目石橋茂一が明治21年頃継承し酒銘を「菊の友」として、主に東京に菰樽詰にて出荷する。次いで三男石橋真三郎が大正6年「古菱」の酒銘で創業し伊丹及び近郷に小売販売を主とする。明治41年初代田中徳松が伊丹において創業、酒銘は「誉鶴」を用い2代目田中徳松がこれを継承し、企業合同に参画するも昭和23年11月に至って分離独立し3代目田中幸夫がこれを継ぐ。
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